雑談

2011年02月24日

本の紹介ー中野著「死を考える」

本の紹介
中野 孝次著 「死を考える」 青春出版社 (絶版?)
 著者は、大学教授から作家に転身して、小説、随筆などを沢山書いておられます。「清貧の思想」が、一時期よく読まれましたが、亡くなられてからはあまり書店に並ばなくなったのは、ファンとしては残念です。
このようなテーマを、漢方医学を紹介するこのホームページに掲載するのは適切かどうか悩みましたが、生を充実させるには健康でなくてはならず、言い換えれば、病気になればよりよく生きることができないため、何故病気を治すのか?という根本問題にかかわると思いますので、載せることにしました。
 病気は、生そのものを痛め、傷つけ、激しい苦痛は、生そのものを否定するに至ることもあります。ときどき、病苦のために自殺したなどと報じられているのを、見聞きすることがあるでしょう。
 人は、“何のために生きるのか?”という解答不能の、宗教的、哲学的難問に悩まれた方なら、各人の個性を生かす“より良く生きる”という問題の方が簡単なことが、お分かりいただけると思います。また病気になれば、“より良く生きる”ということは出来ず、“より良く生きる”爲には、健康でなければなりません。
 漢方により、病気から回復して、健康で毎日生活できている方は、当院受診者では多くおられますし、病気が治らないまでも、苦痛から解放されたと、評価いただいております。病気から解放されることが、“より良く生きる”爲には、必要なのです。
 さて本題に戻り、著者が、以前から死について考えたり、本にして出版されていたことを、この本の中で系統的に述べておられます。死が現代人に嫌われて、日常の中から排除されることとなって久しく、このため、「我々が生きて今ここにある」という「生」そのものが希薄になってしまっていることが、この本の中で明らかにされています。
 そこで著者は、古今東西の偉大な思想家たちの著作を引用しながら、死を正面からとらえることの意味を、また、死を生物学的真実としてとらえて、その上に思考を重ね、「今ここに生きてある」ことの意味を,説いています。フランスの思想家モンテーニュの「死はたしかに生の末端であるが、目的ではない。」という文を引いて、生と死を対峙させ、孔子の論語にある「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや。」と、死後のことは「心を悩ませる」ことなく、ただ、ただ、吉田 兼好法師が「徒然草」の中で述べているような、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」と述べて、生を享受することを、肯定しています。
 このように考えるのは、道元禅師の「正法眼蔵」で説く「前後際断」という考え方により、生と死を、それぞれの位にあるものと考え、因果律と決別した考え方をしなさいということらしい。道元禅師は、薪を燃やして灰ができるという日常目にすることで喩えて、“薪”と、“灰“を、因果関係で捉えず、それぞれ別の“法位”に在るものと捉えることにより、因果関係からの脱却を成就させるということであるらしい。これは、西洋にはない発想で、「前後際断」というのだそうである。この「前後際断」という発想は、実にすばらしい哲学的、宗教的発想法だと思います。我々は、今も昔も、因果律に縛られた考え方をしていて、ために、死や生そのものを捉えることができなかったのではないかと思えます。この考え方による「死」の捉え方は、我々が「死んだときは、その時はその時」とか言って、死後のことは別にしている考えに通じるものがあると思います。
 このように論じて、兼好法師の「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」ということを実行することが生きるということだと、結論つけておられます。まったくそのとうりだと思いますし、日々、よりよく生きてゆくために努力をしようではないか!ということだと思います。
 とても大事なことだと思いましたので、紹介させていただきました。

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